ハロウィーンで大盛り上がりの三ノ宮。吉田五十八は、日本の人も建築も街も西欧に比べて生真面目で堅苦しくてユーモアがなく、こまっちゃけた子供のようだと(おそらく1964年の東京オリンピックより前に)書いていたが、今の日本を見たら何と言うのか。ある意味では変わってないとも考えれるが、イタリアのハロウィーンより狂気じみていて盛り上がっているようにも感じた。
純粋なものが、狂ってゆく
ジェイムズ・クリフォード
まあかりに私が、新築した家へ、招ばれたとしますか、そして、そのお宅へうかがって、一わたり家を拝見して、ウウ、なるほど、相当の家だが、さりとて、ここがばかにいいといってとりあげるほど、いいところもないかわりに、悪いところもなし・・・と考えながら、そこのあるじさんと、いろいろ話しをしているうち、なにかこう心がだんだんと、あたたまってきて、・・・さて帰る段になると、なんとなく、心がひかれて、去りがたいような気がして・・・家へ帰ってからも、なにかもう一度、あの家へ行ってみたいような・・・他にも、パリである婦人に聞いた「本当の巴里の粋」についてのこんな話も書いてある。
『かりにあなたが、巴里のブルバールで一人の婦人とすれ違つたとします。その時あなたは馬鹿馬鹿しく綺麗とは思はないが一寸好ましいなりをしてゐると思って、通りすぎて又もう一度見ようとふり返って見る。そして家に帰つてきても、あのなりはよかつたなあと思ふ。これが本当の流行の極致で巴里の粋人なのです。』と。(中略)二つの話共、家に帰った後じわじわと良さを感じると言っているのが面白い。
私は、新築した家に行つてこれは立派だとは思ふが自分が住む気にはなれない。しかしこんな家に住んでみたいと思ふ家がある。私はこの方が本当の建築だと思ふ。女でもさうだ。あの人は綺麗だなと思ふ。しかし綺麗さだけでは親しめない。あまり綺麗ではないが、何となく親しみを感じてこの人となら一緒に居てもいいと思ふのと似てはゐないか。