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2012/12/31

ローマとザハ

今回でローマに行くのは5回目だが、6日間いたのでゆっくり見て回ることができた。
今までは見てこなかった現代建築も今回は見れた。
ザハ・ハディッドのmaxxi(ローマ国立21世紀美術館)を見たのをきっかけに古代ローマ・イタリア建築に対してあれこれ考えることがあったので、ここに少し書いてみる。

maxxiは、とにかく歩かせるなという感じで、作品の数に対して空間が大きく密度が薄く、ひたすらザハの緩やかなカーブの空間を歩かされる。
エントランスホールなどダイナミックな空間で素晴らしいのだが、どこまで行ってもザハ・ザハ・ザハという感じで、かなり疲れる。つまり、ほぼコンクリート壁で内部空間が構成されており、壁に圧倒される感じがある。
maxxi エントランスホール
とmaxxiを出て感想を頭の中で考えていたら、これって他の古代ローマ建築にも共通する空間体験の感覚じゃないかと思い始めた。
敷地やコンテクストから切り離された「圧倒的な内部空間」はパンテオンやカラカラ浴場でも感じた。
特にカラカラ浴場の空間体験はmaxxiによく似てるなぁと感じた。30m以上の壁に連続して囲まれ、ひたすら歩かされる感覚。どこまで行っても圧倒的な人工物を見せ付けられる。
それらには人間が造り上げたモノの強さがあり、中心は人間なんだという感じがある。
それはそれで感動的でもあり素晴らしいものではあるが、それだけで良いのかという気にもなる。

パンテオン

しかし、圧倒的な内部空間だけでなく、敷地の特徴をうまく使い、周囲の環境も取り入れている古代ローマ建築もある。Villa Adriana ハドリアヌス帝の別荘もその一つである。
自然環境にある程度合わせて配置されているし、建築物の壮大さよりもランドスケープ全体としての素晴らしさを感じさせる。
敷地の奥にあるカノプスはハドリアヌスがエジプトに遠征したときに見たナイル河もモチーフにつくられた。
この空間は人工物以外にも、谷のような地形(一部人工的に盛土されたらしい)や鏡のように反射する池がつくりあげており、パンテオンの圧倒的な内部空間とは違う、壮大な広がりを感じさせる。
さらに、ここには人間だけじゃなくてワニの像がおいてある。
磯崎新風にいうと「ハドリアヌス帝がつくりあげたテーマパーク」であって人間が中心にいるという感じは未だにあるが、都市のローマ建築にはない、人間以外の自然や動物といった要素も入ってきているのがおもしろい。


Villa Adriana 118-125 カノプス
ヘレニズム文化つまりギリシャの影響を受ける前のローマの都市(フォルム)は明確な平面計画ではなく、不定形平面の周りに種々の建築が並んでいたらしい。
ヘレニズムの影響でローマは軸線計画にもとづいた秩序的な都市計画になっていった。
つまりギリシャの影響で秩序化されていったようだが、それ以前にはもっと多様な要素を含んだ訳の分からない世界があったんじゃないかというのが、僕の予想である(ちゃんと調べないといけない)。
バチカン美術館にあるエジプトの美術品

さきほどのヴィラ・アドリアーナの例もそうだが、エジプトなど外で見たモノを通じて、ある種神秘的で理性を超えた世界観を当時のローマ人は持っていたんじゃないか。バチカン美術館で見たエジプトの美術品などからも、そう考えさせられる。

それがどんどん秩序的(人間が脳で理解できる範囲での脳的秩序)になっていき、現在に至るまで、ローマだけでなく、世界各地の都市を支配している。
パンテオンからザハまで繋がっている。
maxxiをあえて批判的に見るなら、あの美術館は曲線を多用しているから自然的、感覚的な建築に一見思えるが、実際は極めて人間中心的、脳的な建築なんじゃないか。
古代ローマ建築もそうだが、人間中心的だから良い悪いと言っているわけではない。
パンテオンもmaxxiも素晴らしい空間を作り上げている。
だけど、建築はそれだけじゃないんじゃないか。


建築に偏りすぎたから、絵を例にとって日常的なイタリアと日本の文化の違いについても思うことがあるので書いておきたい。
Regnato Guttusoの大回顧展がちょうどローマでやっていたので見たが、これまたイタリア的な絵だなぁと思った。特に有名なLa vucciriaという隅々までモノや人で埋め尽くされた絵。

La vucciria / Regnato Guttuso

これはあくまで私観だが、イタリア人は空白に対する恐怖があるんじゃないか。
会話していても沈黙を恐れてしゃべり続けている感がある。
実際あるイタリア人いわく沈黙は失礼に値するらしい。相手としゃべりたくないというように捉えられることもあるからだという。
またあるイタリア人の友人は僕の家に来て、何も飾ってない白い壁ばかりなのを見て、もっと絵を飾るべきだと言う。
確かにイタリア人の家に行くと、ほとんどの家の壁は絵で敷き詰められている。日本人の感覚からすると過剰なまでに。
最近は「エコ・サステイナブル」という(世界的に、もはやファッションになってしまっている)の影響もあり植物を室内に取り入れるのも流行っているが、緑の取り入れ方すら人工的な香りがする。

かたや日本人にとっては「間」という概念は重要であり、空白にも意味を見出してきた文化がある。
絵や音楽にも空白が意味をもって存在している。
だから日本の音楽は西洋の秩序的な五線譜には載らない。
緑に関しても屋上緑化やバルコニーの緑化なんかじゃなく、小さくても庭を地面にちゃんと作っていて庭と建築は切れない関係のものであった。

だけど、今は西洋・東洋関係なく脳的秩序(ちなみに造語、自然から派生したのではなく人間の脳から派生したという意味で名付けてみた)が支配しており空白の概念は、ただの無駄として処理されていると思う。

いつもの癖の大風呂敷で話を広げすぎた。
秩序自体をネガティブに捉えるつもりはないが、その秩序がとても狭い範囲の秩序にしかなってないことが問題じゃないかと考えるローマの旅だった。

Torre Guinigi, Lucca, Italy
後記
中世の都市ルッカにあるTorre Guinigiの塔の上には木が植えてある。15世紀には既に植えられていたと推測されている。コルビュジエの屋上庭園よりも500年くらい早い。
そうすると、Stefano Boeriのbosco verticaleはある意味、植物を地面から切り離し人工的に管理するという点において、とてもイタリア的な緑の導入方じゃないか。


2012/12/05

積読

相変わらず積読そして併読中。
もちろんメリットもある。思わぬところで知識が繋がり強化される。
実は予想して併読してるわけだから、意外ということもないかもしれない。

中沢新一「野生の科学」と柄谷行人「坂口安吾と中上健次」を併読しているが何か似たものを感じる。
それにしても柄谷行人の二人に対する考察、そして彼の感性に感動する。
一つの事象、物語から深く多様な物事を読みとる力には脱帽。
もちろん僕もすべては理解できないが。

野生の科学に書いてある「不思議な環(普通のやり方ではつなぐことのできない階層の事物を、特別な構造をもったループによってつなぎあわせる能力をもっている。)」は笑いにも通じていると思う。
特に松本人志の笑いは三次元を超えた四次元的な「不思議な環」で、どっから発想したのか分からないけど繋がっているから、笑ってしまう。

追伸, 2013.01.28
弟から聞いた話だが、野沢直子が1980年代にダウンタウンと共演した後、世界一のお笑い(外人にも通用する)を求めアメリカに行き5年間試行錯誤したが、一番ウケたのは猿のモノマネだったらしい。
そして日本に帰ってきて松本人志と会ったとき、彼は開口一番「アメリカ人おもんないやろ」と彼女に言ったらしい。
彼女が5年間かけて理解したことを彼は感覚で理解していたことに脱帽したという。
言語、文化が違うので簡単に比較はできないが、「不思議な環」的なお笑いの感覚は日本独特なものなのかもしれない。
論理的、視覚的、言語的に直接繋がっていることが明確に分かる方が西欧文化では受け入れられ易いというのはイタリアに住んでいても実感する。


柄谷が坂口安吾の考察で書いてある「突きはなすかのように存在する現実」という言葉は
「不思議な環」と似た感触がある。
どちらも脳では中々理解できない現象であるが現実として目の前に現れる。
だから笑ったり泣いたり怯えたり、すなわち感動する。

そんなことを考えてたら、「美とは矛盾である」とすら思えてきた。
人間の日常的な脳では中々理解できないから矛盾に思えるが、不思議な環でつながっている。
その矛盾がどうしようもない魅力なんじゃないかと思う。