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2013/02/23

都会の膿

養老孟司が「物理法則では自然界に秩序が発生した場合、同じ量だけどこかに無秩序が排泄される」と言っていた。

野犬を都市で首輪を付けて管理して飼い始めたことによって、田舎で猪が発生する。
冷暖房完備で温度を一定に保つことによって二酸化炭素が排泄されるなどの例を聞いて、なるほどと理解していたつもりだが、今日読んだ記事は、その時の想像をはるかに超え文明社会の秩序が生んだ悲惨な無秩序状態がレポートされていた。

2013.2.22 FRI なぜコンゴを血で染める戦争は続くのか?:知られざるハイテク産業の裏の顔

記事によると、アップルもサムスンも臭いものに蓋をするように、原産地を曖昧にしているようだ。

上の例のように人間中心、先進国中心の限られた範囲における秩序活動が多すぎるから、
対象範囲を極限まで広くした秩序活動というものは可能なのかと考える。

それが可能だとしても、やはり養老孟司が言うように、また別の場所で無秩序が発生するだけなのかもしれない。 イタチごっこのようになってしまうのか。

秩序活動は悪なのか?
デザインも無秩序を秩序づける活動、すなわち秩序活動だと思うが、それで解決したつもりになっているだけで、本当は別の所で同量の無秩序を排泄しているのか。

ただ、何となく引っかかるのは、養老孟司が「人が起きている時に行った秩序活動のせいで無意識にたまったエントロピーを寝ることで下げる」ことに関しては秩序活動と呼んでいないことだ。
例として出していたのは、「道路工事(修理)は夜中に車が通らない間に行われる」だが、それは秩序活動ではないのか?

しかし、そこで行われている秩序活動はどこか別の場所へ無秩序を排泄しているというよりも、内部のエネルギーを使うことでシステム内で解消しているように思える。
睡眠中エントロピーを下げているとき(ノンレム睡眠中)は、起きている時よりも脳がエネルギーを使っているらしい。
道路工事の例でいうと、夜中働いている人の中で(昼夜逆転など)無秩序が発生していそうだが、それらはある意味、システム内で自己解消しているようにも捉えられる。

そういった無秩序を外部に出さずに自己解消できるようなデザインってあるのだろうか?

2013/02/21

Pantha Du Prince @Q21




音を一つ一つ丁寧に積み重ねていってる印象だった。
どんどん音を重層化していく。
一般的なDJがカタログから素材を選ぶインテリア・デコレーターだとしたら、大工のように実際手を使って仕事をしている職人。

2013/02/20

Sigur Rós @Mediolanum Forum ASSAGO


セカンドアルバムからシガーロスを聞いてるが11年経ってやっとライブを見ることができた。

始めの3曲ぐらいはステージがレースカーテンのような半分透ける布で周囲を覆われていて、その布に映像や自分達の影を音楽に合わせて投影していたのだが、それがとてもカッコ良かった。
彼らは薄っすらしか見えないのだけれど、このままで最後までやっても良いんじゃないかと思うぐらい良かった。
正に総合芸術。

彼らの鼻の奥をくすぶるようなか細い音と心臓に響く骨太な音の両方が面影のような形で視覚化されていたと思う。
半分隠れてるのに、よりリアリティというか、迫ってくるものがあった。


2013/02/08

先入観

朝のカドルナ駅。
失礼ながら見た目と音のギャップから、演奏してるふりだけで実際はCDの音を流していると思ったが、本当に演奏していた。
しかも素晴らしい演奏だった。
反省。
屋根が良い具合に音を反響させている。
彼らのポジション取りも最高。

2013/02/05

He leaped the fence, and saw all nature was a garden

"He leaped the fence, and saw all nature was a garden"
Horace Walpole

というホラス・ウォルポールの言葉をどこで知ったのかは全く覚えてなかったが(おそらく7年前)、ずっと頭の片隅に残っていた。
先日ナヴィリオ運河沿いの古本屋で"Horace Walpole, Essay upon modern gardening, 1780"のイタリア語版を見たときにその言葉を思い出して、調べてみた。

上記の文章は小説の一節だとずっと思っていたが、そうではなくHeとは18世紀に風景式庭園などで活躍したイギリス建築家・造園家のウィリアム・ケントのことであり、彼が採用していた「ハハー」という塀に言及したものであったことが分かった。

「ハハー」とはチャールズ・ブリッジマンが考案したもので空堀りがほどこされた塀のことである。
空堀りされているので敷地内から外を見ると塀が見えず自分の庭が延々と続いているように見える。
動物が敷地内に入らないように空堀りがしてある。この「ハハー」という名前は人々が空堀を発見したときのリアクションからきているという。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ha-ha



from Wikipedia
というように小説の一節ではなく意外と即物的なものに対する文章だったことが分かり、なるほど円通寺の借景に通じる話かと思ったが、深読みすると敷地境界線や土地所有の問題にも関わっているように思う。
とくに"all nature was a garden"という文章が気になる。

塀の存在は建築を勉強し始めた頃からずっと気になっていた。
塀の存在が土地所有の区分を視覚化し、自分の土地と他人の土地を分ける。

ロンドンで僕が担当しているタウンハウスのプロジェクトでも、一つの古い共有壁をいじるときに、どこまでが自分たちの塀かなどで問題を起こし、隣人も異常なくらいに執着している。
塀の上のわずかな雨水をどちらに落とすかなど、細かい問題も出てくる。
なんとこれらの塀の問題を解決する専門家までイギリスにはいて"Party wall surveyor"と呼ばれている。

その区分意識が「街」と「建築設計」の風通りを悪くしているようにも感じる。
自分の敷地だから好きなことをしてよく、他の敷地には興味を持たず、家のゴミを外に捨てるようなことが起きる。


Matera Sassi, Italy

例としては極端だが、マテーラのサッシ地区では自分の家の上が公共通路になっていたり、別の人の家になっていたりする。排水管や給水管も共有で使っているらしい。
詳しいことはもっと調べなければいけないが、宿の亭主に聞いた話だと行政が援助しつつも、住民(多くが観光業に携わっているみたいだった)がコミュニケーションを取り、力、知恵を出し合ってメンテナンスしている。
どこまでが自分の家で、どこからが公共物などという概念がないと言っていた。
一つの有機体として街を捉えている。
確かに、マテーラのサッシ地区には個人の建物・土地という概念はなく、街全体が一つの建物、共有物と言えなくもない。

敷地(土地所有)や塀の問題をもう少し考えなければならない。
まさにホラス・ウォルポールが言う"Leaping the fence"ということを念頭におき"all nature was a garden"ということに気づかなければならない。




2013/02/03

動的状況と直感

http://bababbu.blog.shinobi.jp/Entry/34/
2013年1月27日投稿、「時代と人間」への書簡。

細尾直久様

僕が前回の書簡で書いた「危険」というのは言葉として強すぎたかもしれません。
災害時におけるような物理的な危険ではなく、日常における精神的な安全、危険という意味だったのですが(事故という言葉も同様)、よくよく考えてみると「安定、不安定(動的)」と言ったほうが良かったのかもしれません。

直久さんが言及していたVito Acconciの作品がどれなのか僕も見つけられなかったのですが、別の作品で「Community House」と「Where we Are Now」というものを見つけました。
http://disegnodaily.com/interview/vito-acconci

自己と他者、プライベート・スペースとパブリック・スペースという概念についてラディカルな示唆に富んだ作品だと思います。
自転車に乗る他者が介入することで、家が切断され外部と関係をもつなど、直久さんが前回書いた話に繋がると思います。

直久さんが書かれていた、

危機が迫ったときに、ひととひとは、手をつないで、支えあおうとする。そう考えると、不安で、緊張感のある時代にこそ、ひとは人間になるのかもしれません。

という言葉、共感します。

物理的、フィジカルな安全、安定が確保された社会では、人は一人でいる方が精神的にも安定していると錯覚し、引きこもるのかもしれません。
危機が迫った時に、他者とのコミュニケーションを始め、ある種の不安定、動的な状況を通ることで、そのさらに奥にある安全を求める。
そう考えると、不安全な今の日本の状況において坂口恭平のように自己やプライバシーの概念を解体したような人が出てきたことに僕は納得できます。

直久さんが出された象設計集団の例も、これまでの話に繋がると思います。
ある意味雑多で多様な要素を排除することなく取り入れ、空間をつくるという、管理が難しく動的な状況に対峙している(もしくはできる)建築家が現在では少ないようにも感じます。
近代科学のように扱えない(管理できない)ものは排除し、要素をシンプルに記号化し、神の視点でアルゴリズムなどを使い設計を行っている建築家が雑誌を賑わせている現状には疑問を感じます。

何で読んだか聞いたのかは覚えてないですが、確か将棋士の羽生善治がスーパーコンピュータと将棋の試合をしてもミスがない限り負けないという話を思い出しました。
コンピュータは分析はできるが直覚がないからだというような話だと思います。
プロの将棋士は2時間かけて分析した後に手を打っているわけではなく、盤を見て瞬時に直覚したものを2時間かけて正しいか分析しているらしいです。
cf.) 小林秀雄講演集4 「現代思想について」

その時、プロの将棋士の頭の中で起きている「ひらめき」は、ある種の偶然でありコンピュータには(未だ)ない能力らしいです。
藤原正彦曰く、数学者も同様で、彼はそれを「美的直感」というように呼んでいたと思います。
証明はできないが、「この数式は美しいから間違っているはずがない」と何年もかけてその数式を証明するという話でした。
もちろんコンピュータの分析能力は非常に役に立っていると思いますが、それに終始寄りかかり要素を単純化、記号化した状態で分析的に物事を設計するのはどうかと思います。

なので、象設計集団のような設計は過去のもので、アルゴリズムを使った設計こそが最先端で新しいとは思えないです(誰も思ってないかもしれませんが)。
むしろコンピュータに寄りかかりすぎ、直感が退化しているように感じます。

磯崎新が原広司との往復書簡で

「天災や大事故が起こったとき、アーキテクトは通念では科学的に無根拠にみえる構想で対処せねばならない。無根拠を根拠づけうるか。確率論的手続きではまに合わない。」

と書いていますが、この言葉は正にプロの将棋士がやっていることに似ていると感じました。
建築家やデザイナーも考えていかなければいけない部分であると思います。

支離滅裂な文章になってしまい申し訳ないです。
書きながら関連することで思い出したことを書いてみました。
気付けば、中途半端なコンピュータ批判みたいになってしまいましたね(笑)。
設計に関しては、もう少し具体的に思考を進めていきたいと思ってるので、また機会があれば書きます。
さすがに直感という一言では終われないので。

二月になりましたがミラノは曇り続きでまだまだ寒いです。不景気の影響かスリやボッタクリの被害をよく耳にします。
去年あたりからイタリアの治安がさらに悪くなってきているように感じます。
ここから日本を見ると、とても安全に見えるのですが実際のところは分からないですね。

北川浩明


書簡の内容とは関係ないですが、一昨日行ったベネチアで見た改修中のクエリーニ美術館の橋(スカルパ設計)です。
床板材を支えるサブストラクチャーのディテールまで美しいです。