Horace Walpole
というホラス・ウォルポールの言葉をどこで知ったのかは全く覚えてなかったが(おそらく7年前)、ずっと頭の片隅に残っていた。
先日ナヴィリオ運河沿いの古本屋で"Horace Walpole, Essay upon modern gardening, 1780"のイタリア語版を見たときにその言葉を思い出して、調べてみた。
上記の文章は小説の一節だとずっと思っていたが、そうではなくHeとは18世紀に風景式庭園などで活躍したイギリス建築家・造園家のウィリアム・ケントのことであり、彼が採用していた「ハハー」という塀に言及したものであったことが分かった。
空堀りされているので敷地内から外を見ると塀が見えず自分の庭が延々と続いているように見える。
動物が敷地内に入らないように空堀りがしてある。この「ハハー」という名前は人々が空堀を発見したときのリアクションからきているという。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ha-ha
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とくに"all nature was a garden"という文章が気になる。
塀の存在は建築を勉強し始めた頃からずっと気になっていた。
塀の存在が土地所有の区分を視覚化し、自分の土地と他人の土地を分ける。
ロンドンで僕が担当しているタウンハウスのプロジェクトでも、一つの古い共有壁をいじるときに、どこまでが自分たちの塀かなどで問題を起こし、隣人も異常なくらいに執着している。
塀の上のわずかな雨水をどちらに落とすかなど、細かい問題も出てくる。
なんとこれらの塀の問題を解決する専門家までイギリスにはいて"Party wall surveyor"と呼ばれている。
その区分意識が「街」と「建築設計」の風通りを悪くしているようにも感じる。
自分の敷地だから好きなことをしてよく、他の敷地には興味を持たず、家のゴミを外に捨てるようなことが起きる。
Matera Sassi, Italy
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例としては極端だが、マテーラのサッシ地区では自分の家の上が公共通路になっていたり、別の人の家になっていたりする。排水管や給水管も共有で使っているらしい。
詳しいことはもっと調べなければいけないが、宿の亭主に聞いた話だと行政が援助しつつも、住民(多くが観光業に携わっているみたいだった)がコミュニケーションを取り、力、知恵を出し合ってメンテナンスしている。
どこまでが自分の家で、どこからが公共物などという概念がないと言っていた。
一つの有機体として街を捉えている。
確かに、マテーラのサッシ地区には個人の建物・土地という概念はなく、街全体が一つの建物、共有物と言えなくもない。
敷地(土地所有)や塀の問題をもう少し考えなければならない。
まさにホラス・ウォルポールが言う"Leaping the fence"ということを念頭におき"all nature was a garden"ということに気づかなければならない。