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2014/12/17

Arata Isozaki x Peter Cook, Dialogue @Kyoto Seika University

京都精華大学にて磯崎新とピーター・クックのプレゼンテーション及び対談を聴く。
二人は1968年のミラノ・トリエンナーレ以来、約半世紀にわたる付き合いらしく、対談においても共感しあう場面が多かったように思う。

対談の終盤でお互いの個人的な趣向やイギリスと日本の共通点の話をしていた場面が印象的である。
ピーター・クックが「イギリスも日本も島国で、車は左車線を走り、漫画やアニメのようなSillyなものが好きな部分が共通している。」とおちゃらけた話を切り口に、磯崎新が「イギリスも日本も島国で、歴史的にはローマや中国のような、中心とされていた文化の輸入ばかりしてきて、日本においてはここ2、300年で独自の発展をしてきたにすぎないが、大陸文化のような中心とは違う発展をしてきたという共通点がある。JapanesenessとBritishnessがあるだけだ(日本やイギリス独自の伝統があるのではなく、日本風、イギリス風のものがあるだけという意味だと私は解釈した)。」というような話をした。
そして二人とも、中心(オーソドックスなオーダーをもったもの)に興味がなく(Boringだと言っていた)、エキセントリックであり続けたというような話をしていた。(その後ピーター・クックが半分冗談でオーソドックスなハーバート大学を揶揄していたのが面白かった。)
ピーター・クックが、同じような意味でオーストラリアも辺境で島国だから、いろいろ面白い建築家がたくさんいると言ったのも興味深い。

ピーター・クックが日本のモノにはFundamental Simplicity(根本的簡素さ)があり、余計なものが付いておらず、アイディアがクリアに見えると言い、同じ簡素さでも、良い日本の建築家はそれを美しく達成しているが、悪い日本の建築家はゴミ同然の建築に仕上げているという話をし、何でも収集してしまうイギリス人の心理かもしれないが自分は、足していって、レイヤリングすることが好きだと言っていた(私は日本人にもそういった趣向があるのではないかと思うが)。
それに対する学生の質問で「それでは日本の街はシンプルか?」というものがあり、それに対してピーター・クックが「日本の街はカオスに見えるが実はシンプルな原理でできている、逆にヨーロッパの街は根本的に複雑だから建物の高さを揃えるなどしてシンプルにしているというパラドックスがある。」と答えたのが非常に面白い。これは確かに実感としても納得できるものがある。ある意味、ローマの方が東京よりも歴史的にも宗教的にも複雑で多様かもしれない。

その話に関連づけて磯崎新は、「60年代にカオティックな東京の都市に対してシンプルなシステムを組み立てる仕事をしていたが(今はその手法は日本では使えず中国の中西部で有効じゃないかとも言っていた)、自分達が興味があるエキセントリックさというものは『中心からズレていくこと』で、そういう意味では、カオティックなものがシンプルになるのも、シンプルなものがカオティックになるのも同じことであり、中心を退屈だと感じるのが島国の人だ。』という話もしていた。
非常にエキセントリックな対話だった。

エキセントリック eccentric
ec-(外へ)+centr(中心)+ic = 中心からはみ出た
脱中心的