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2014/06/05

Antoine d'Agata Anticorps @Atsukobarouh


渋谷のアツコバルーでアントワーヌ・ダガタの「抗体」という写真展を見た。
入り口にあるアツコバルーさんの言葉によると「高級スーパーマーケット化しているアートフェスティバル、そのせいで角がとれてしまったアート」に対するアンチテーゼのようなかたちで人間の裏を露出したようなダガタの写真を提示している。なるほどダガタの写真自体が抗体として現代社会に存在しているようにも感じる展示であった。
街でいうと裏路地(北山修いわく、日本では昔「心」と書いて「うら」と読んでいたらしく、その心を吐き出せる裏道、裏路地がたくさんあったらしい)として存在しているようにも感じた。
ダカタはベッドタウンのことを「強制収容所」だと書いていた。確かにベットタウンだけでなく裏路地が消えていく街(高層建造物を建てるためでもあると思う)はまさに去勢された街のようで、1000ルクス以上の照明で隅々まで明るいオフィスビルのインテリアのようだ。
他にも「演出との決裂」「客体との距離を拒む」など気になる言葉がたくさん散りばめてあった。岡崎乾二郎さんの本「ルネッサンス 経験の条件」にも通じるようなキーワードだと感じた。

独房、娼婦街、内戦を捉えた写真以外にも僕個人的には日常の喜怒哀楽、光と闇を同時に写したような矛盾したダカタの写真も好きだが今回の写真展では展示されていなかったように感じた(実際僕が知ってる彼の作品の中でも5点ぐらいしかないのだが)。「抗体」という彼のテーマにそって選んでいるのだと思う(おそらく今回の日本での展示だけでなく)が、現代社会、高級スーパーマーケット化するアートフェスティバルに対する「抗体」であるならば、それらに対して真逆のような表現の写真だけでなく、もっと複雑な写真展であっても良かったと思う。そういう意味ではある意味、テーマがはっきりしたナイーブな展示だったかもしれない。単純に対抗できるのは真逆(に見える)の方向を持った単純ではなく複雑だと思う。でなければ、抗体のように既存の細胞と結合することはできないのではないだろうか。


文字通り社会を斜めから見たようなファサードのビルの5階に位置するアツコバルーは「arts drinks talk」というだけあってバーが併設されてあり飲みながら展示を見れ、トークイベントなども行っている最高のスペースである。アートフェスティバルのみならず「高級スーパーマーケット化している」アート業界には貴重なスペースではないか。

2014/04/15

微弱なる電流

自転車で近所をブラブラしていると、どこからかラテンの香りがする音色が聞こえてきた。記憶を刺激され、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなった。よく見ると、スーツを着た中年男性が休館日の図書館の駐輪場でクラシックギターを弾いていた。
話を聞いてみると、家では練習できず、ここなら邪魔にならないだろうと、ひっそり練習しているという。フランシスコ・タレガのアラビア奇想曲をとても上手に弾いていたが、こういう人こそ誰もいない駐輪場じゃなく、もっと人目につく所で演奏して欲しいと思う。



J-POPを流すのは良くて、こういった素晴らしい音楽を家で練習できないって、どんな社会かと思う。だけど表にはあまり出てないが、マジョリティの圧に負けずに影で活動している人もたくさんいるはずだ。なんてことを考えながら、さらに自転車を走らせると小さな鉄工所を見つけた。


ただならぬ雰囲気があったので中を見ると、カッコ良い部材がたくさんあったので話を聞いたら、「もうここも終わりや、工場閉めるねん」と投げやりに言われた。大企業が提供する既成品ばかりが使われ、誰もオーダーメイドの金物を使わないのか。
さっきのギターのおじさんと違い、外圧に潰されてしまったフラジャイルな可能性もまたたくさんあるという感じがして何とも言えない気持ちになる。

上の写真はその鉄工所付近の風景だが、この郊外住宅地の風景もまた均一化圧や安価主義が作り上げたものじゃないか。その中にもギターのおじさんのように、ひっそりと勝手にやっている人はいる。司馬遼太郎いわく、皆誰でも「微弱なる電流」を持っている。どうすれば、その微弱なる電流を強くすることができるのか。各々の微弱なる電流をアソシエイト、表出させれるような場をつくることが必要である。いやむしろネットなどを通して既にそういう動きはたくさんある。
均一化圧ともいえるような外圧が世界的に高まっている中で、もっと内部からの圧力を高めないとバランスがおかしくなってしまう。