渋谷のアツコバルーでアントワーヌ・ダガタの「抗体」という写真展を見た。
入り口にあるアツコバルーさんの言葉によると「高級スーパーマーケット化しているアートフェスティバル、そのせいで角がとれてしまったアート」に対するアンチテーゼのようなかたちで人間の裏を露出したようなダガタの写真を提示している。なるほどダガタの写真自体が抗体として現代社会に存在しているようにも感じる展示であった。
街でいうと裏路地(北山修いわく、日本では昔「心」と書いて「うら」と読んでいたらしく、その心を吐き出せる裏道、裏路地がたくさんあったらしい)として存在しているようにも感じた。
入り口にあるアツコバルーさんの言葉によると「高級スーパーマーケット化しているアートフェスティバル、そのせいで角がとれてしまったアート」に対するアンチテーゼのようなかたちで人間の裏を露出したようなダガタの写真を提示している。なるほどダガタの写真自体が抗体として現代社会に存在しているようにも感じる展示であった。
街でいうと裏路地(北山修いわく、日本では昔「心」と書いて「うら」と読んでいたらしく、その心を吐き出せる裏道、裏路地がたくさんあったらしい)として存在しているようにも感じた。
ダカタはベッドタウンのことを「強制収容所」だと書いていた。確かにベットタウンだけでなく裏路地が消えていく街(高層建造物を建てるためでもあると思う)はまさに去勢された街のようで、1000ルクス以上の照明で隅々まで明るいオフィスビルのインテリアのようだ。
他にも「演出との決裂」「客体との距離を拒む」など気になる言葉がたくさん散りばめてあった。岡崎乾二郎さんの本「ルネッサンス 経験の条件」にも通じるようなキーワードだと感じた。
独房、娼婦街、内戦を捉えた写真以外にも僕個人的には日常の喜怒哀楽、光と闇を同時に写したような矛盾したダカタの写真も好きだが今回の写真展では展示されていなかったように感じた(実際僕が知ってる彼の作品の中でも5点ぐらいしかないのだが)。「抗体」という彼のテーマにそって選んでいるのだと思う(おそらく今回の日本での展示だけでなく)が、現代社会、高級スーパーマーケット化するアートフェスティバルに対する「抗体」であるならば、それらに対して真逆のような表現の写真だけでなく、もっと複雑な写真展であっても良かったと思う。そういう意味ではある意味、テーマがはっきりしたナイーブな展示だったかもしれない。単純に対抗できるのは真逆(に見える)の方向を持った単純ではなく複雑だと思う。でなければ、抗体のように既存の細胞と結合することはできないのではないだろうか。
文字通り社会を斜めから見たようなファサードのビルの5階に位置するアツコバルーは「arts drinks talk」というだけあってバーが併設されてあり飲みながら展示を見れ、トークイベントなども行っている最高のスペースである。アートフェスティバルのみならず「高級スーパーマーケット化している」アート業界には貴重なスペースではないか。