先日久しぶりにベネチアに行ったが、その時初めてアクア・アルタ、街の水位が上がっているのを見た。
この街を歩いていると、人間の行動が自然に制限されているのが面白い。アクア・アルタの時は特に行動が制御されて不便だが、サンマルコ広場を歩かずに泳いでいる鳥がいたりして時間の流れがゆったりしている。
温暖化が原因などとも言われてる(実際関係しているらしい)が、僕はそれよりも石積基礎の下に埋まっている木杭が腐って沈んでいるんじゃないかと思っていた。
しかし、塩野七生の「海の都の物語」によると、他の要因が書いてあり、それが非常に興味深い。
この本によると、ベネチアには9世紀からマジストラーレ・アレ・アクア、水の行政官と言われる行政官が置かれ、土木建築部門の仕事を任されていたらしい。
なぜ土木建築業であるのに水の行政官と呼ばれているかというと、潟の中にあるベネチアにとっては、言うまでもなく建築物が水、潮の満干に影響され、むしろ建築物のほうが自然の変化に従属的だからである。
洪水を避けようとすれば、川の流れと潮の満干の関係を充分に計算して、適当と思う箇所に、櫛の歯のようにたくさんの水路をつくるしかないのである。水の力を相殺させるためにである。
水路は、すでにあったものが適当ならば、それを補強し、方向が悪ければ曲げ、ないところでも必要となれば新しくつくる。曲がっていようと関係ない。要は、水が常に流れていれば、目的は達せるのである。(p38-39)
この仕事を達成できなければ絞首刑にするという公約がベネチア共和国が崩壊するまでは就任式でされていたらしい。
彼女いわく、この重い責任が課せられなくなってから200年も経ないのに、現在のベネチアはしばしば水びたしになる。
建築物の歴史から察するにカナル・グランデ(一番大きな運河)は長い歴史を通じてそこまで大きくは変わっていないはずだが、多くの建物は水の流れを滞らせないために壊されたり形状を変えベネチアにある無数の運河の形を変え続けていた。
そうやって街が新陳代謝を続けていた。
現在でも水の行政官と呼ばれる職はあるが、おそらく、運河はほとんど変わってない。
むしろ、ーイタリアの街はほとんどそうだがー 法律が厳しすぎて変えれない。
歴史あるベネチアの街を守るためにモーゼ・プロジェクトという巨大な可動式防潮堤を作る計画があり2013年6月の時点で75%完成しているらしい。なんと心のない技か。
自然をテクノロジーで制御するという如何にも現代人的な発想ではあるが、それらのテクノロジーがあまり意味がなかったことを今回の災害を経験した日本人なら直感的に感じるんじゃないか。
イタリア人だけではないが、モノが古いというだけで価値をおきすぎ、それらが常に同じ形であり続けてきたと思っているんじゃないか。
日本人がヨーロッパの街を褒めるときにも、保存がしっかりされていることを理由にあげたりするが、僕はそうではなく、「歴史からの連続性」だと思う。
壊れた所は修正しつつも足したり引いたりし常に少しづつ変化し続けているからじゃないか。保存だけしていたら、風通りが悪くなりベネチアのように沈んでしまう。
日本の街のように、歴史からの連続性もあまりなく、常に壊しては新しいものを作り続けているのも同様の意味で良いとは思わない。
ピーター・アイゼンマンはあるインタビューで "Architecture is not about innovation. Architecture is about transformation of precedents. In other words, analyzing precedents and bringing into the present day. "
「建築は刷新することではない。建築は先例の変形だ。言い換えると、先例を分析し現代に持ってくることだ。」と言っている。
正直言って、彼の建築を見ても先例との連続性を読み取ることは難しい(論理的には古典的な建築言語を使って建築設計を行っているようだ。ジョゼッペ・テラーニのカーザ・デル・ファッショを分析した本からも、その意図が読み取れる。)が、この言葉には賛同する。
イタリアでは、保存・修復に関する言葉が厳密に分かれている。(日本でも分かれているが、イタリアで建築に関わる人は日本人よりも意識的に分類して仕事に携わっている印象がある。)
Restauro, Conservazione, Ristrutturazioneの3つがそれにあたる。
日本語に当てはめると、Restauroは「復元」で元の通りに戻すこと、Conservazioneは「保存」で元に戻すわけではないが現状より壊れないようにすること、Ristrutturazioneは「リノベーション」で古いものに新しいものを加え変形させることである。
DVDプレーヤーの操作ボタンに例えると、巻き戻し、一時停止、再生という感じである。
率直に言うと、僕は再生ボタンだけあれば良いと思ってる。
日本の街のように、早送りやスキップをして先例から何の連続的な関係のないものを量産する必要もないと思う。
逆に、ヨーロッパの街では復元や保存が善い行為とされすぎているきらいがある。
歴史建築をいじるときにも図面の至るところに言い訳のように「オリジナルのディテールを使用(もしくは復元)」などと書いたりする。確認申請を早くおろさせるためだ。
役人もこの文章を見たら安心するのだろうか。
繰り返しになるが、僕はヨーロッパの街の良さは連続再生をしてきたからだと思っているが、こんな状況だとこれから何十年、何百年後には沈んでしまうような気もしなくはない。
復元(巻き戻し)、保存(一時停止)、刷新(スキップ)のどれも(おそらく産業革命以降の)現代人の発想じゃないか。それまでは連続再生が普通のことで、急速な技術進歩によって人が自由にコントロールできるようになったからじゃないか。
モーゼ・プロジェクトなんかは、それの最たるもので名前のつけ方からして自我丸出しじゃないか。滑稽ですらある。
Ponte della Costituzione |
話はベネチアに戻るが、サンタ・ルチア駅西側に新たにできたカラトラバ設計の新しい橋に最近車椅子用の乗り物ができた。
前々からこの新しいデザインには批判が集中していたが、この乗り物はさらに物議をかもしだしており、確かにベネチアの運河をこの未来的な乗り物が横断している絵は異様であった。
僕の中でも賛否両論あるが、ベネチアで最も多く使われているイストリア産大理石を使っていることからも少なからず連続性が見れるし、現代でしかできないことを付け加えたという点では希望もある。
この橋を否定しつづけている間はベネチアは沈み続けるだろう。