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2013/12/26

Web City

フェズの旧市街全景
フェズ旧市街内部
モロッコの街を歩いていて、いろんな物事がカオス的だと初めは感じていたけども、だんだんそれだけではないと思うようになった。
カオスといえばカオスなのかもしれないが、各々の要素がウェブ状直接、蜘蛛の巣のように繋がっていて、むしろシンプルなのかもしれないと抽象的に考えだした。
カオスとシンプルは表裏一体なんじゃないかと。
例えば、街の構造にしても全体を統制するような分かりやすい計画、ルール(セットバックなど)はなく、個人個人が隣人と交渉しながら局所的に計画しているような感じがする。局所的な計画であっても、そうやって全体がウェブ状に繋がっているから街全部で一つの生命体となる。どこからどこまでが一つの建物というように分割し難い。明瞭なルールはないが、全体的な方向もしくは流れのようなものは感じる。
そういう意味ではシンプルだとも言える。
詳しくは知らないが、イスラム教のタウヒードの「一に帰す」という多様性を内包した一神教的概念が街のあり方にも表現されているように思う。

西欧社会や日本のような西欧社会に影響を受けた国はツリー状の構造で上からの計画やルールに従えば良いため横の繋がりは薄く、イスラム社会のような局所的な隣人との交渉で計画が生まれにくい。つまり、地域共同体のようなものを形成するのがイスラム社会に比べて困難なのではないか。

マラケシュのスーク 

マラケシュの鍛冶屋街
あと興味深いのはイスラム教ではお金がお金を生むような利子をとることを銀行を含めて禁止しているということ。取引額の差額で利潤を得ることは認めている(だからボッタクルのはありなのか)。ここが資本主義経済と根本的に違う。
スーク(市場)でも多くの店が値段を貼っておらず、定価というものが存在していないようだ。客によって値段が変わる。
これも前述の街の構造と同じで、全体を統制する定価というものがなく、個人個人の局所的な交渉で決まる。工場で大量生産しておらず、多くの店が同じ建物内もしくは近所で一つ一つ生産しており全く同じという商品がないからじゃないか。
定価慣れした西欧人のために値札を張っている店を数軒みたが、どこも工場で大量生産されたような同じ商品を売っている店だったが、西欧人の客がけっこう入っていて安心して買い物をしてるようだった。

こういった昔ながらのスーク商人に対し、ぼったくろうとするなんて野蛮な人たちだと少なからず思っていたが、実は彼らの方が高度な取引をしていて、大量生産し定価で全体統制する取引のほうが幼稚に感じなくもない。
同様に、利子で儲けたり、為替取引のようなシステムの下お金をコンピュータで動かしてお金を儲けるような取引も彼らからしたら幼稚な取引なんじゃないか。

フェズのなめし革作業場
なめし革にしても染にしても、彼らが100%自然物で作っておりコントロールしやすい化学系のものは使ってないという(本当かは知らないが皆口を揃えて言う)のが気になる。

人間は彼の生産において、ただ自然そのものがやるとおりにやることができるだけである。すなわち、ただ素材の形態を変えることができるだけである。それだけではない。この、形をつける労働そのものにおいても、人間はつねに自然力にささえられている。(カール・マルクス、資本論 第一巻、p85)
というマルクスの言葉を思い出す。

何かそこらへんに彼らの(宗教から来るのかは分からないが)倫理観があるように感じる。

フェズ旧市街の鍛冶屋
なめし革作業場の横にある革物屋もそうだが、上の写真の鍛冶屋のように工房と売り場が一体となっている店が多いことも非常に興味深い。
資本主義経済の影響で工場での大量生産型で同じものばかり売っている店も最近は増えてきたみたいだが、こういった工房と売り場が一体となった店では一つとして同じものを置いていない。

鶏屋
上の写真のような鶏屋とでも言えるような所で鶏を買って自分でさばく人も普通にいるみたいだ。
道を歩いていても生きている鶏を担いでいる人を何人も見かけた。
どこかの工場で大量に飼育され加工されたものをスーパーで買っている僕の生活とは全く違う。
こういう所からも彼らの高度な生活能力が垣間見れる。僕らからすればサバイバル能力とでも言えそうなものだ。
あらゆるものが便利になり自分たちの国を先進国だと言っているけれでも、それは資本主義経済側から見た先進でしかすぎないのではないか、一歩外に出れば何もできない。
定価が貼ってなければ安心して買い物もできない、地図、GPSがないと旧市街を歩くこともできず子供に助けられチップを払う(払わされる)。
どこが先進国の人なんだろうか。
モロッコで生活している彼らのほうが先進的ではないかもしれないが高度な生活を送ってるように感じた。

システムのブラックボックス化ということが最近気になる。
普段コンピュータを使っていても感じる。便利なアプリケーションソフトがどのような仕組みでできているのかは全く分からないが、それらを使えば様々なアウトプットができる。
その得体の知れないシステムのお陰で便利な生活ができるし、初歩的な勉強しかしていない学生でも最先端の技術に携われる。しかし間ががっつりブラックボックス化されているため、何か不具合があってももはや手が付けれれない。そのお陰で科学は進歩したのかもしれないけども、ブラックボックス化によるシステムの柔軟性のなさが問題なのではないか。
間を省略しどこかで加工された(ブラックボックス化された)鶏肉を食べている僕よりも鶏を買ってきて自分で捌いている人のほうが、自由度が高い。