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2013/01/28
Milan walk
今日は月に一度のナヴィリオ骨董市。
運河沿いに古い家具や骨董品が無造作に並んでいる感じがとても良い。
こんな感じで怪しいおじさんが不思議なオブジェクトを売っていたりもする。
イオニアオーダーの柱頭の上に脳の入ったガラスボックスが乗っている謎のオブジェ。
アンティークな金物もたくさん売っている。
ちなみに僕が唯一買ったのは、おそらく骨董品ではないが、役に立つと思った洋服、帽子掛け。
用の美を兼ね備えた有機的でダイナミックな形が気に入った。
18ユーロ。前にいたアジア人がしつこく値切っていたのがカッコ悪かったので値切らなかった。
早速、玄関脇の壁に取り付けてみる。
友達が来たときにも便利。
四年ぶりくらいにドゥオーモに登ってみたが、記憶していたよりも数倍良かった。
ドゥオーモ広場がこんな模様をしていたことや、上から見ると下にいる時に感じた人の多さよりも人がばらついて見えておもしろかった。
ガリバルディの開発でスカイラインも大分変わってきている。
ミラノにもまだまだいろんな発見がある。
Bergamo walk
チッタ・アルタを上から望む
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今回はベッキア広場横の塔に上ったり、ケーブルカーでチッタ・アルタ(高い都市)からさらに上がって街を眺めることができ、チッタ・アルタのダイナミックさを体感した。
各パラッツォの前庭、中庭に高低差があり、それらを建物が繋いでいるのがおもしろい。
ベッキア広場横の塔から街を望む
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サンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂
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初めて歩いてチッタ・バッサ(低い都市)まで30分くらいかけて歩いて降りたが途中の景色はまるで道が浮いているようで空中都市を思わせる。それを支えているのは石造の巨大な構造体、壁である。
バール・フロラのバーカウンターと階段
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ベッキア広場にあるバール・フロラの内装は金属部品(一部既成品)を溶接して階段、カウンター、棚、ドアや額まで作られていて、とてもカッコ良い。
しかもそれでいてガチャガチャしている雰囲気はなくディテール、組み合わせなどもよく考えられていて綺麗である。
僕にとってはひょっとすると、ベルガモの方がミラノよりもかっこ良く魅力あるものがたくさんあるんじゃないかと思った小旅行だった。ミラノのブルーライトがあるような小洒落たバーにはもううんざり。
2013/01/26
Metabolic Landscape
イタリアでは都市計画のことをurbanisticaというが、それとは別の言葉で都市デザインを表現する言葉としてpaesaggio urbanoというものがある。
こっちの言葉の方が僕はイタリアでよく耳にする(事務所にランドスケープ・デザイナーもいるからかもしれない)。
paesaggioは英語で landscapeつまりurban landscapeという意味だが、urban landscapeという英語は普通(造語以外では)使わないんじゃないか?僕が聞いたことがないだけかもしれない。
イタリアの建築・都市雑誌の"paesaggio urbano"も英語のサブタイトルでは"urban design"となっている。
つまりイタリアでは風景、ランドスケープという概念が普通に街の中にも浸透している。
よく言われている話ではあるが、イタリアの特に中世からの街では一つ一つの建物が孤立して存在しておらず、街全体の一つの細胞のようにして存在している。
そのような街につくられる建物はどのようにして街の中の一細胞として機能することができるかが常に問われる。新築であろうが改築であろうが同じである。
まさに建物一つ一つが街全体(paesaggio、風景)の細胞となり新陳代謝をしている。
人や建物(他にもたくさんの要素がある)が風景の新陳代謝に寄与する。
それをMetabolic Landscapeととりあえず名付けてみた。文法的にはmetabolizingとした方が正しいようにも感じたが、主客を曖昧にしたかったので、metabolic 代謝性の、としてみた。
日本のメタボリズムが1960年代から行っていたことは建物単体内における新陳代謝の概念にしか見えない(少なくとも現実化したものに関しては)。
一般的に日本建築に関して海外でも称賛されている建物内外の繋がり、部屋と庭の相互浸透に関しても敷地内での話が多いのではないか。
しかし、日本においても長屋の路地のように向こう三軒両隣で一つの公共空間を形成し、公共空間と各々の建物が相互浸透していた例もある。
なので、建築が一つの細胞となり街・風景の新陳代謝に寄与することが、イタリアの昔からの街・建築だからできることで日本の街・建築では不可能だとは思わない。
日本の街の環境はイタリアに比べて悪く、外部・街に対して関係を持てる要素が少ない、と敷地内に「引きこもり」がちになるが、それでも丁寧に読み取って、風景の新陳代謝に寄与する必要がある。
今の建築雑誌を賑わせてるほとんどの建築は、「引きこもり中学生」もしくは「家の中だけで偉そうにしている親」に見えなくもない。引きこもり建築家。
雑誌には家の中で偉そうにしてる場面しか写されてないからカッコ良く見えているだけではないか。
山田脩二のような建築を風景の一部として撮るような建築写真家がほとんどいないというのも問題だと思う。
建築物は風景に奉仕する一細胞ではないか。
危険に向かう
京都在住の建築家、細尾直久さんが僕の1月17日の投稿「事故を起こす計画」に対して往復書簡の形で返事をくださった
http://bababbu.blog.shinobi.jp/Entry/33/
への返事
細尾直久様
僕のブログに対する投稿ありがとうございます。
往復書簡のようなものは初めての試みですが、僕のように他人に伝えるための文章が拙い者にとっては良いトレーニングです。
「事故を起こす計画」と自分でタイトルをうっておきながら、後で見ると何だか怖いタイトルですね。おそらく日常ではハプニングの方が単語としてよく使われてるのだと思いますが、僕がこの投稿を書いた時の気分はハプニングというよりも事故もしくは事件の方がしっくりきてました。
直久さんが言うように、インターネット・ショッピングに代表されるような、管理され余分な要素(直久さんのシェアハウスや一人住まいの例でいうと、他者)が意識的に剥ぎ落とされた世界では、事故は起こりにくいと思います。
ある意味では便利ですが、おもしろくないですね。
そもそも僕のつけたタイトル自体が矛盾を孕んでいます。
事故を起こさないために計画というものが存在しているのに、「事故を起こす計画」とは完全に矛盾してますね。
ですから、事故を起こすための計画とは計画ではないのかもしれません。
従来の意味での計画では事故は起こらないかもしれません。
計画ではなく、無計画のための演出(物語化)といった感じでしょうか。
直久さんが出していた本屋の例でいうと、松岡正剛がプロデュースをし、丸善丸の内本店で一時期あった丸松本舗でやられていたことも、本との危険な出会いを作りだすことだったというように記憶してます。
この「危険」というのが僕にとってはとても重要です。
意識的に管理された安全な空間では体験することのない、ドキドキする感じが重要なのだと思います。
そこで起きる事故とはまさに個人の世界を拡げてくれるものだと思います。
どうすれば建築の設計で事故を起こすことが可能かというのは難しいですね。
ただ、無計画に滅茶苦茶にやるということではないと思います。
秩序もしくは物語が必要だと思います。
ある種の秩序を持ちつつも同時に、小さく弱く異なるエレメント(建築設計でいうと敷地状況などでしょうか)を切り捨てずに多様性を保つ必要があるのではないでしょうか。
意外とブルーノ・ムナーリもそういうことを考えていたような気がします。cf) Da cosa nasce cosa
一部の日本デザイナーがやっている、エレメントが削ぎ落とされきった単純で安全なデザインから事故は起きないと思います。(人々はその安全性に惹かれて買っているかもしれませんが。)
と抽象的に言葉では語ってますが、自分が実際設計をするとなると本当に難しいですね。どうしても気付けば安全な方向にばかり向かっている気がします。
危険に誰しも惹かれるのだと思いますが恐怖心が安全な世界に逃げ込ませているように感じます。
日本のデザインも60年代から現在にかけて危険から安全な方向にどんどん向かっているように感じます。建築もデザインも60年代のものを見ると危険な香りがぷんぷんします。
この事に関してはまた別の機会に投稿してみようと思います。
僕はイタリアから勝手に日本の状況を妄想して語っているのですが、管理社会や事故のない(他者に会わない)安全ということに関して、特に震災後何か変化はあったのでしょうか?実際日本に帰ってみてどう感じますか?
シェアハウスの流行などは、とても大きな変化に思います。
北川浩明
P.S.
Art itのウェブサイトで大竹伸朗の「夢宙」という夢日記のような連載がありますが、彼の夢の中で無意識と無意識が交通事故を起こしまくっていて、とてもおもしろいです。
http://www.art-it.asia/u/adm_cont12/tNRJquz43L12oG58nrQU/?art-it=6b049a556be6f3049555a9b50a7d0d96
http://bababbu.blog.shinobi.jp/Entry/33/
への返事
細尾直久様
僕のブログに対する投稿ありがとうございます。
往復書簡のようなものは初めての試みですが、僕のように他人に伝えるための文章が拙い者にとっては良いトレーニングです。
「事故を起こす計画」と自分でタイトルをうっておきながら、後で見ると何だか怖いタイトルですね。おそらく日常ではハプニングの方が単語としてよく使われてるのだと思いますが、僕がこの投稿を書いた時の気分はハプニングというよりも事故もしくは事件の方がしっくりきてました。
直久さんが言うように、インターネット・ショッピングに代表されるような、管理され余分な要素(直久さんのシェアハウスや一人住まいの例でいうと、他者)が意識的に剥ぎ落とされた世界では、事故は起こりにくいと思います。
ある意味では便利ですが、おもしろくないですね。
そもそも僕のつけたタイトル自体が矛盾を孕んでいます。
事故を起こさないために計画というものが存在しているのに、「事故を起こす計画」とは完全に矛盾してますね。
ですから、事故を起こすための計画とは計画ではないのかもしれません。
従来の意味での計画では事故は起こらないかもしれません。
計画ではなく、無計画のための演出(物語化)といった感じでしょうか。
直久さんが出していた本屋の例でいうと、松岡正剛がプロデュースをし、丸善丸の内本店で一時期あった丸松本舗でやられていたことも、本との危険な出会いを作りだすことだったというように記憶してます。
この「危険」というのが僕にとってはとても重要です。
意識的に管理された安全な空間では体験することのない、ドキドキする感じが重要なのだと思います。
そこで起きる事故とはまさに個人の世界を拡げてくれるものだと思います。
どうすれば建築の設計で事故を起こすことが可能かというのは難しいですね。
ただ、無計画に滅茶苦茶にやるということではないと思います。
秩序もしくは物語が必要だと思います。
ある種の秩序を持ちつつも同時に、小さく弱く異なるエレメント(建築設計でいうと敷地状況などでしょうか)を切り捨てずに多様性を保つ必要があるのではないでしょうか。
意外とブルーノ・ムナーリもそういうことを考えていたような気がします。cf) Da cosa nasce cosa
一部の日本デザイナーがやっている、エレメントが削ぎ落とされきった単純で安全なデザインから事故は起きないと思います。(人々はその安全性に惹かれて買っているかもしれませんが。)
と抽象的に言葉では語ってますが、自分が実際設計をするとなると本当に難しいですね。どうしても気付けば安全な方向にばかり向かっている気がします。
危険に誰しも惹かれるのだと思いますが恐怖心が安全な世界に逃げ込ませているように感じます。
日本のデザインも60年代から現在にかけて危険から安全な方向にどんどん向かっているように感じます。建築もデザインも60年代のものを見ると危険な香りがぷんぷんします。
この事に関してはまた別の機会に投稿してみようと思います。
僕はイタリアから勝手に日本の状況を妄想して語っているのですが、管理社会や事故のない(他者に会わない)安全ということに関して、特に震災後何か変化はあったのでしょうか?実際日本に帰ってみてどう感じますか?
シェアハウスの流行などは、とても大きな変化に思います。
北川浩明
P.S.
Art itのウェブサイトで大竹伸朗の「夢宙」という夢日記のような連載がありますが、彼の夢の中で無意識と無意識が交通事故を起こしまくっていて、とてもおもしろいです。
http://www.art-it.asia/u/adm_cont12/tNRJquz43L12oG58nrQU/?art-it=6b049a556be6f3049555a9b50a7d0d96
2013/01/24
Japanese Underground
昨晩はモデナの服ブランド、DEAD MEATのデザイナー兼社長のジョバンニが家に泊まりに来たので晩御飯を食べた後朝三時まで話し込んでた。
けっこうな音楽好きで僕のアコギを弾いたと思ったら、今度は僕にそれを弾かせ自分は茶碗やワイングラスと箸でドラムを始めたりと、少人数でどんちゃん騒ぎ。
彼はバンドもやっていて、音源を聴かせてもらったがなかなかカッコ良かった。
カオティックやポストハードコアといった感じだったので、日本にもそっち系でカッコ良いバンドたくさんあるよと、Mono, There is a light that never goes out, The carnival of dark-split, envy あたりを聞いてもらったら、感動してた。とくにMonoに反応してた。さすがMono、イギリスではレコード屋にもあったし、わりと売れてるとは聞いたがイタリアでは名前すら聞いたことはない。
イタリアに来てからここ最近はこういう音を聞いてなかったので、ジョバンニが来てくれたおかげで逆に、何だか懐かしい感覚を刺激された感じがした。
ナイーブで素朴な歌も好きだが、こういうアンビバレントな音もやっぱりカッコ良い。
漫画も興味があるというから、つげ義春を薦めたが英語やイタリア語で売ってるかは微妙。
ついでに寺山修司も紹介して、こんな人もいたよと教えた。
こういった世界観ってあまり海外に輸出されてないような気がする。
黒澤、小津、宮崎だけじゃないよ。
ウィリアム・バロウズが好きだというから大竹伸朗を薦めたりという感じで、一方的に日本のわりとディープな方のカルチャーを紹介してたが、けっこう感動してくれてたみたい、多分。
ジョバンニも僕が知らない画家や音楽をいろいろ教えてくれたが、今朝気づくとイタリア人のアーティストは一人もいなかった。
イタリアにアンダーグラウンド文化は存在するのか?
もちろん僕が知らないだけで、ないわけがないんだが、日本でのアングラの捉えられ方とは随分違うんじゃないか。
あくまで予想だけど、ちょっと痛い人達ぐらいにしか捉えられないんじゃないか。
だからイタリアで彼みたいな服を売るのが難しいのかなとも思った。
けっこうな音楽好きで僕のアコギを弾いたと思ったら、今度は僕にそれを弾かせ自分は茶碗やワイングラスと箸でドラムを始めたりと、少人数でどんちゃん騒ぎ。
彼はバンドもやっていて、音源を聴かせてもらったがなかなかカッコ良かった。
カオティックやポストハードコアといった感じだったので、日本にもそっち系でカッコ良いバンドたくさんあるよと、Mono, There is a light that never goes out, The carnival of dark-split, envy あたりを聞いてもらったら、感動してた。とくにMonoに反応してた。さすがMono、イギリスではレコード屋にもあったし、わりと売れてるとは聞いたがイタリアでは名前すら聞いたことはない。
イタリアに来てからここ最近はこういう音を聞いてなかったので、ジョバンニが来てくれたおかげで逆に、何だか懐かしい感覚を刺激された感じがした。
ナイーブで素朴な歌も好きだが、こういうアンビバレントな音もやっぱりカッコ良い。
漫画も興味があるというから、つげ義春を薦めたが英語やイタリア語で売ってるかは微妙。
ついでに寺山修司も紹介して、こんな人もいたよと教えた。
こういった世界観ってあまり海外に輸出されてないような気がする。
黒澤、小津、宮崎だけじゃないよ。
ウィリアム・バロウズが好きだというから大竹伸朗を薦めたりという感じで、一方的に日本のわりとディープな方のカルチャーを紹介してたが、けっこう感動してくれてたみたい、多分。
ジョバンニも僕が知らない画家や音楽をいろいろ教えてくれたが、今朝気づくとイタリア人のアーティストは一人もいなかった。
イタリアにアンダーグラウンド文化は存在するのか?
もちろん僕が知らないだけで、ないわけがないんだが、日本でのアングラの捉えられ方とは随分違うんじゃないか。
あくまで予想だけど、ちょっと痛い人達ぐらいにしか捉えられないんじゃないか。
だからイタリアで彼みたいな服を売るのが難しいのかなとも思った。
プレゼントしてくれたDEAD MEATの新しいコレクションのTシャツ
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2013/01/23
Via Santa Croce
休憩でよく通る事務所近くの通り。
ミラノでは数少ない車が入れない通り。裏道だか公園や教会に隣接しており雰囲気がある。
写真の左側は建物の裏庭に面しているわけだが、塀の高い部分にアーチ型の開口がある。何のためかは分からないが、閉塞感を少し和らげ奥側の店から続くリズムを作っているようにも感じる。
舗装の組み合わせもなかなか良い。
Ciottoli(小石の意)というイタリアの伝統的な舗装。昔はセメントなしで職人が綺麗に小石を敷き詰めていたという。
Capella Portinari della basilica di San Eustorgio, 1468 / Michelozzo
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ミケロッツォ設計のポルティナーリ礼拝堂がこの通りからよく見える。
サン・テウストルジョ教会に隣接している礼拝堂だが、教会とは分離され独自の外観である。
ミケロッツォはフィレンツェでブルネレスキから建築を学んだが、この教会ではフィレンツェで学んだピュアなクラシック・スタイルよりはむしろ、カラフルでデコラティブなミラノ・スタイルのデザインとなっている(特に内部、写真はまた載せます)。
cf.) The Architecture of the Italian Renaissance / Peter Murray
クラシックスタイルとローカルスタイルにおけるジレンマというか、矛盾が何とも魅力になっているようにも感じる。
昨日は訪れた時は、身廊ではなく側廊にあるアプスでミサをやっていた。平日だからか?
身廊空間がぽっかり開いていて不思議な感じだった。
2013/01/22
2013/01/18
事故を起こす計画
旅をしていてよく思うが、あらかじめ行き先を全部きめて予定通りに動くよりも、何も決めずに五感に従ってブラブラ歩き、その場で出会ったものに反応してる方がおもしろい。
おもしろさでいったらそうなのだが、やはり旅行期間も限られているので毎日そうするわけにはいかず、計画もある程度必要であるが、そのある程度っていうのが重要な気がする。
建築設計においても、ディレクションは大事だと思うが、あらかじめ行き方の記された地図をもらっても良いものはできないんじゃないかと思う。
磯崎新はよく「事故を起こせ」と事務所で言っていたらしい。
磯崎アトリエの所員から聞いたのだが、あるプロジェクトのために佐々木睦朗に自己生成する構造のシュミレーションをしてもらって、その結果を彼がもう一度三次元に起こすときに佐々木睦朗のシュミレーションモデルが不恰好だったので少し形を整えてモデリングし直したら、めちゃくちゃ怒られたという。その時にしか生まれないもの、計画された意図からは生まれない形が大事なのだという意味だと思う。
意図から離れたところで事故的にすごいものができるというのは、よく聞く話だ。
建築、デザインだけでなく、ノーベル賞をもらうような発見もほとんどが事故から生まれているという。
重要なのは、事故を許容そして受容できる態度じゃないか。
もちろん計画は重要だが、設計図から外れたときに、外れたエレメントを興味深くおもしろがれるかが大事だと思う。
それから、あえて事故がおきるようにネジをゆるめておくような、もしくは隙間をあけておくような、不完全な、破れた、オープンな、他者がそこから入ってこれるような計画が良いんじゃないかとすら思う。
おもしろさでいったらそうなのだが、やはり旅行期間も限られているので毎日そうするわけにはいかず、計画もある程度必要であるが、そのある程度っていうのが重要な気がする。
建築設計においても、ディレクションは大事だと思うが、あらかじめ行き方の記された地図をもらっても良いものはできないんじゃないかと思う。
磯崎新はよく「事故を起こせ」と事務所で言っていたらしい。
磯崎アトリエの所員から聞いたのだが、あるプロジェクトのために佐々木睦朗に自己生成する構造のシュミレーションをしてもらって、その結果を彼がもう一度三次元に起こすときに佐々木睦朗のシュミレーションモデルが不恰好だったので少し形を整えてモデリングし直したら、めちゃくちゃ怒られたという。その時にしか生まれないもの、計画された意図からは生まれない形が大事なのだという意味だと思う。
意図から離れたところで事故的にすごいものができるというのは、よく聞く話だ。
建築、デザインだけでなく、ノーベル賞をもらうような発見もほとんどが事故から生まれているという。
重要なのは、事故を許容そして受容できる態度じゃないか。
もちろん計画は重要だが、設計図から外れたときに、外れたエレメントを興味深くおもしろがれるかが大事だと思う。
それから、あえて事故がおきるようにネジをゆるめておくような、もしくは隙間をあけておくような、不完全な、破れた、オープンな、他者がそこから入ってこれるような計画が良いんじゃないかとすら思う。
Jackson Pollock
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2013/01/17
シンプルと怠惰
先日事務所で、プレゼント用に包装紙を巻いてくれと言われたので、何となくならできるがプロフェッショナルなやり方は知らないと言ったら、同僚のイタリア人にお前はそんなのも知らないのかと言われ、彼女がやって見せてくれた。
彼女は、これくらいイタリアで覚えて帰りなと冗談交じりで言いながら包んで誇らしげに僕に見せたが、僕はできたものを見て愕然とした。誰でもできるような普通の包み方でテープもあちらこちらに張りまくりで汚かったからだ。
僕が言ってたのはそういうのじゃないと、youtubeで日本のデパートの包み方を見せたら、皆びっくりして、綺麗だが日本人は何でこんな複雑なことをやるのかとイタリア人達は言っていた。
そこから、いろいろと考え始めたのだが、おそらくシンプル、簡素に対する感覚が違うんじゃないかと思う。
イタリア料理を考えてもらえば分かるが、イタリアの料理はある意味シンプルで素朴である。
素材の味が濃く豊かであるため余計な味をつける必要がないという。
一方、日本料理の職人さんに聞くと、寿司などシンプルな料理に見えるものでも、仕込みが大変らしい。
建築でも、日本建築の複雑な継手と仕口に比べるとイタリアの建築は組積造にしても木造にしても、装飾こそ複雑なものの単純な造りである。
少し強引かもしれないが、ここまでの例で分かるのは、一般的にイタリアはプロセス、製造過程においてはシンプルに進めるが結果は必ずしも簡素なわけではない。
一方、日本では結果的な簡素さ若しくは日本の美的感覚を求め、プロセスは非常に複雑である。
そもそもシンプルという言葉自体使い古されて何のことなのかよく分からなくなってきていないか?
まず日本のものがシンプルという言葉にすべて当てはまるとは思わないが、松岡正剛がいうように「引き算の文化」であるとは思う。
しかし完成品は引き算されているが、そのおかげでプロセスは複雑になり逆に足し算されていると感じることもよくある。さきほどの料理や建築の例を見てもそうではないか。
例えばアップルの製品なども非常に引き算されたプロダクトだと思うが、製造過程をシンプルにしたらあんな形にはならないはずだ。確か、ipodの裏蓋なんか山形に持って行って職人さんに磨いてもらいてる。
ここまで考えると、VIco Magistrettiがインタビューで語っていた「シンプルさとはこの世で一番複雑なことだ。」という言葉や、原研哉が茂木健一郎との対談で語っていた「シンプルとカオスは同じことを違う方面から見て言ってるだけのように思う。」という言葉が響いてくる。
誤解を恐れずはっきり言うと、例に挙げたイタリアのプロセスにおけるシンプルさは怠惰からくるものであってマジストレッティが言っているシンプルとは違うものだと思う。マジストレッティが言っているシンプルは日本のそれに近いと思う。
あとこれはあまり誰も言っていないが、なぜ無印良品が世界中でこんなに人気があるかについて思うことがあるので記したい。
あそこまで人気があるなら、他の売れてない家庭用品会社など真似すれば良いのにと思うが、(僕の完全な予想だが)プロセスが複雑すぎて誰も真似できない。
デザインがシンプルだとか、素材もそこそこ良いなど他にも理由はたくさんあるだろうが、僕にはそれらの理由はすべて結果的な次元の話に思える。
なぜオンリーワンで未だに売れているかというと、それらの結果的次元の理由を実現するためのプロセスが複雑すぎて簡単には真似できないからじゃないか?
イケアの製造過程で無印のデザインは生まれない。
仕込みのレベルの高さ。これこそ日本が海外に誇れるものじゃないか。
それは射程時間が長いとも言える。場当たり的に動いてない。
一方で場当たり的に動くシンプルなプロセスが作りだす美も存在すると思うので、それについてはまた今度書いてみたい。おそらくキーワードは事故とかになってくるのではないか。
2013/01/01
Reflection 2012
意外と忘れてしまうので、今年感動をした人、本、映画、音楽、都市を記しておく。
坂口恭平
本もおもしろかったが人としておもしろすぎる。今年一番の衝撃と感動。
坂口安吾「日本文化私観論 etc」
「必要」という言葉の深さを思い知らされた。
堀口捨己「草庭」
日本建築の捉えかたにおいて、形式論的な理論を語る人が多いが、堀口は材料など言葉になりにくいものにまで思考をめぐらせている。
中沢新一「野生の科学」
「不思議な環」という大事な概念を頂いた。
Bruno Vaerini
一緒にヴィチェンツァに旅行したが、僕より35歳くらい年上なのに建築家の友達として僕と接してくれた。その態度に感動したと同時に身を引き締められた。
イタリアの歴史や文化が彼の中に詰まっていて、惜しみなく教えてくれた。
イスタンブール
トルコ人の友達の結婚式に出るために行ったが、式やパーティも含め異文化やイスタンブールのダイナミックさに感動した。イスタンブールは二回目だったが、イタリアから行くと全然違って見えた。自分の目も変わってきていることに気づいた。
松倉如子
宮沢章夫が「竹中直人以来の衝撃」といったらしいが、僕にとっても衝撃だった。
Aki Kaurismaki "The man without a past"
音楽から役者、シーン、カメラワークまで、どれも好き。
成瀬巳喜男「乱れる」
高嶋峰子が素晴らしい。
50年前の映画なのに、個人商店がスーパーマーケットによって潰れていく話など未だにあるが、こんなに前から始まっていたことに驚いた。50年前の日本が見れるのが興味深い。
さ、これから家でイタリア人、日本人の友達とDJセットで音楽がんがんかけながら別室では鍋を囲んで年越し。
来年もよろしくお願いします。
松倉如子
宮沢章夫が「竹中直人以来の衝撃」といったらしいが、僕にとっても衝撃だった。
Aki Kaurismaki "The man without a past"
音楽から役者、シーン、カメラワークまで、どれも好き。
成瀬巳喜男「乱れる」
高嶋峰子が素晴らしい。
50年前の映画なのに、個人商店がスーパーマーケットによって潰れていく話など未だにあるが、こんなに前から始まっていたことに驚いた。50年前の日本が見れるのが興味深い。
さ、これから家でイタリア人、日本人の友達とDJセットで音楽がんがんかけながら別室では鍋を囲んで年越し。
来年もよろしくお願いします。