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2013/01/26

危険に向かう

京都在住の建築家、細尾直久さんが僕の1月17日の投稿「事故を起こす計画」に対して往復書簡の形で返事をくださった
http://bababbu.blog.shinobi.jp/Entry/33/
への返事

細尾直久様

僕のブログに対する投稿ありがとうございます。
往復書簡のようなものは初めての試みですが、僕のように他人に伝えるための文章が拙い者にとっては良いトレーニングです。

「事故を起こす計画」と自分でタイトルをうっておきながら、後で見ると何だか怖いタイトルですね。おそらく日常ではハプニングの方が単語としてよく使われてるのだと思いますが、僕がこの投稿を書いた時の気分はハプニングというよりも事故もしくは事件の方がしっくりきてました。

直久さんが言うように、インターネット・ショッピングに代表されるような、管理され余分な要素(直久さんのシェアハウスや一人住まいの例でいうと、他者)が意識的に剥ぎ落とされた世界では、事故は起こりにくいと思います。
ある意味では便利ですが、おもしろくないですね。

そもそも僕のつけたタイトル自体が矛盾を孕んでいます。
事故を起こさないために計画というものが存在しているのに、「事故を起こす計画」とは完全に矛盾してますね。
ですから、事故を起こすための計画とは計画ではないのかもしれません。
従来の意味での計画では事故は起こらないかもしれません。
計画ではなく、無計画のための演出(物語化)といった感じでしょうか。

直久さんが出していた本屋の例でいうと、松岡正剛がプロデュースをし、丸善丸の内本店で一時期あった丸松本舗でやられていたことも、本との危険な出会いを作りだすことだったというように記憶してます。
この「危険」というのが僕にとってはとても重要です。
意識的に管理された安全な空間では体験することのない、ドキドキする感じが重要なのだと思います。
そこで起きる事故とはまさに個人の世界を拡げてくれるものだと思います。


どうすれば建築の設計で事故を起こすことが可能かというのは難しいですね。
ただ、無計画に滅茶苦茶にやるということではないと思います。
秩序もしくは物語が必要だと思います。
ある種の秩序を持ちつつも同時に、小さく弱く異なるエレメント(建築設計でいうと敷地状況などでしょうか)を切り捨てずに多様性を保つ必要があるのではないでしょうか。
意外とブルーノ・ムナーリもそういうことを考えていたような気がします。cf) Da cosa nasce cosa
一部の日本デザイナーがやっている、エレメントが削ぎ落とされきった単純で安全なデザインから事故は起きないと思います。(人々はその安全性に惹かれて買っているかもしれませんが。)

と抽象的に言葉では語ってますが、自分が実際設計をするとなると本当に難しいですね。どうしても気付けば安全な方向にばかり向かっている気がします。
危険に誰しも惹かれるのだと思いますが恐怖心が安全な世界に逃げ込ませているように感じます。

日本のデザインも60年代から現在にかけて危険から安全な方向にどんどん向かっているように感じます。建築もデザインも60年代のものを見ると危険な香りがぷんぷんします。
この事に関してはまた別の機会に投稿してみようと思います。

僕はイタリアから勝手に日本の状況を妄想して語っているのですが、管理社会や事故のない(他者に会わない)安全ということに関して、特に震災後何か変化はあったのでしょうか?実際日本に帰ってみてどう感じますか?
シェアハウスの流行などは、とても大きな変化に思います。

北川浩明

P.S.

Art itのウェブサイトで大竹伸朗の「夢宙」という夢日記のような連載がありますが、彼の夢の中で無意識と無意識が交通事故を起こしまくっていて、とてもおもしろいです。
http://www.art-it.asia/u/adm_cont12/tNRJquz43L12oG58nrQU/?art-it=6b049a556be6f3049555a9b50a7d0d96