Translate

2013/01/26

Metabolic Landscape

イタリアでは都市計画のことをurbanisticaというが、それとは別の言葉で都市デザインを表現する言葉としてpaesaggio urbanoというものがある。
こっちの言葉の方が僕はイタリアでよく耳にする(事務所にランドスケープ・デザイナーもいるからかもしれない)。
paesaggioは英語で landscapeつまりurban landscapeという意味だが、urban landscapeという英語は普通(造語以外では)使わないんじゃないか?僕が聞いたことがないだけかもしれない。
イタリアの建築・都市雑誌の"paesaggio urbano"も英語のサブタイトルでは"urban design"となっている。
つまりイタリアでは風景、ランドスケープという概念が普通に街の中にも浸透している。
よく言われている話ではあるが、イタリアの特に中世からの街では一つ一つの建物が孤立して存在しておらず、街全体の一つの細胞のようにして存在している。
そのような街につくられる建物はどのようにして街の中の一細胞として機能することができるかが常に問われる。新築であろうが改築であろうが同じである。
まさに建物一つ一つが街全体(paesaggio、風景)の細胞となり新陳代謝をしている。
人や建物(他にもたくさんの要素がある)が風景の新陳代謝に寄与する。
それをMetabolic Landscapeととりあえず名付けてみた。文法的にはmetabolizingとした方が正しいようにも感じたが、主客を曖昧にしたかったので、metabolic 代謝性の、としてみた。

日本のメタボリズムが1960年代から行っていたことは建物単体内における新陳代謝の概念にしか見えない(少なくとも現実化したものに関しては)。
一般的に日本建築に関して海外でも称賛されている建物内外の繋がり、部屋と庭の相互浸透に関しても敷地内での話が多いのではないか。
しかし、日本においても長屋の路地のように向こう三軒両隣で一つの公共空間を形成し、公共空間と各々の建物が相互浸透していた例もある。
なので、建築が一つの細胞となり街・風景の新陳代謝に寄与することが、イタリアの昔からの街・建築だからできることで日本の街・建築では不可能だとは思わない。
日本の街の環境はイタリアに比べて悪く、外部・街に対して関係を持てる要素が少ない、と敷地内に「引きこもり」がちになるが、それでも丁寧に読み取って、風景の新陳代謝に寄与する必要がある。
今の建築雑誌を賑わせてるほとんどの建築は、「引きこもり中学生」もしくは「家の中だけで偉そうにしている親」に見えなくもない。引きこもり建築家。
雑誌には家の中で偉そうにしてる場面しか写されてないからカッコ良く見えているだけではないか。
山田脩二のような建築を風景の一部として撮るような建築写真家がほとんどいないというのも問題だと思う。
建築物は風景に奉仕する一細胞ではないか。