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2013/12/28

Norwegian & Japanese Timber Construction

Lom Stave Church

屋根材まで松の木、防水防腐のためにタールが塗ってある。


教会内部
ノルウェイにあるロムのスターヴ教会。大自然の中の立地もすごいが、12世紀から続いている教会だけあって外観からもただならぬ雰囲気が漂っている。組積基礎の上に立つ木造建築。
組積造の教会に慣れてたせいもあってか、中に入ると教会というよりも日本の神社仏閣のような雰囲気だった。人工照明も最小限でゴシック教会などに比べると極端に開口部が小さいため暗く異様な雰囲気。
太い丸柱が薄暗い空間に何本も屹立している空間にいると、福島県会津若松市の熊野神社長床を思い出す。

熊野神社長床
双方ともに原始的というか、骨太で男性的な印象を受ける。
調べてみると、建設された時代や経緯も似ている。
熊野神社は平安末期から鎌倉初期にかけて建立されたと推論されているからロム・スターヴ教会と同じくらいの12世紀あたりだろう。
その後、スターヴ教会は1608年から徐々に再建され始め今の形になっているが、熊野神社長床は1611年に会津地震で倒壊し、1614年に再建されているため、今の形に繋がっている再建がなされた時期も同じ頃である。
8000km以上離れた国であるのに、同時代に建てられた宗教建築に似た雰囲気を感じたことが不思議だ。

ロム・スターヴ教会の柱

熊野神社長床の柱
それぞれ、修復され続け今まで残っていることが柱を見れば分かる。見比べてみると、日本の技術の方が洗練されていることが分かる。ノルウェイの民家を見ていても同じ木で似たような構法(軸組、校倉)を使って行っても、随分仕上げの精度が違う。
しかし、その木を最小限にしか加工しないノルウェイの荒々しい組み方がカッコ良かったりする。日本人側から見ると雑な印象を受けなくもないが、向こうからすると日本人は綺麗に仕上げ過ぎて面白くないかもしれない。

ロムにある伝統的木造倉庫

基礎、写真では分かりにくいが石場建てである。
スターヴ教会のすぐ近くにある木造倉庫。これは日本でいうところの高床式校倉構法の倉庫である。
これまた奈良の正倉院に似てるなぁと感じた。このロムの倉庫に関しては時代がよく分からないが、正倉院も同じく倉庫であった。気候はノルウェイのロムの方が断然寒いはずだが、雨や雪が多いから高床式にしてるという点では案外理由は似てるのかもしれない。

正倉院
ノルウェイの倉庫の屋根は断熱性を高める草屋根で随分正倉院とは異なる。
双方ともに石場建である。

Hardanger地方の納屋。19世紀以前は草屋根が主流だったらしいが、以降はスレート屋根が主流になったらしい。これがまた自然の形をそのまま使っていてカッコ良い。
こんなの図面では書けない。現場で手を動かして技を身につけてデザインしながら建てるという感じだろうか。
木組みも雑かもしれないが、鉄製の釘は一切使わず、木釘と継手だけで構成されている。
スレートの腰壁と植物の茎の壁が素晴らしい。

これらノルウェイ(北欧)木造建築に共通する特徴は自然素材の加工が最小限である(日本と比べ随分素朴である)ということだが、それの究極はサーミ人の建築、工作物だろう。

オスロの民族博物館で見たサーミ人の家。ぱっと見は家というよりは巣という感じの佇まい。日本の竪穴住居に近いが、より素朴な印象を受ける。
土と草屋根で北欧の寒さを凌げ、遊牧民である彼らのスタイルにあった、簡単に作れ解体できる住処である。
日本の路上生活者(坂口恭平風)の人もビニールハウスよりもこちらの方が快適なんじゃないかと思った、少なくとも冬は。夏は風が通らず地獄かもしれないが、意外と地面からの一定した冷熱で涼しいかもしれない。特に彼らが多く住んでいる川沿いなど涼しいかもしれない。これなら、まさに0円ハウスじゃないか。僕が見た展示用のサーミ人の家には防水シートが土の裏から少し見えていたが、昔は他の草屋根同様、白樺の皮で防水してたはずだ。それでも日本の豪雨には勝てないかもしれないが。
こういう住処も法的には構造物になるのだろうか?砂山の延長みたいな感じにならないだろうか。

ジャン・ヌーベルの東京グッゲンハイム美術館の元ネタもこういう所にあったりするかもしれない。素材の加工の仕方、使いかたなど藤森照信建築に近いものも感じる。

家の前での集合写真、お爺ちゃん、お婆ちゃん、子供、犬まで全員強そう。
サーミ人の倉庫
ストックホルムのスカンセンで見たサーミ人の倉庫。これも高床式だが、なんと高床の柱が木の幹と根の形そのままで、人の足みたいになっている。その足が石の上に乗っているだけだが、安定している。自然の木の形に着目し、その自然の構造を最小限の加工でうまく利用している。


その横にあった前述同様のサーミ人の家のドアの取手。同じように、木の形をそのまま利用していて、とてもカッコ良い。

Kuksaというサーミ人が作るコップ。白樺の木のコブ、樺瘤から作られる。これもFound ArtならぬFound Design。人が主体となってデザインをするのではなく、自然が既にもっている形に従うだけ。
ミケランジェロが石を見た瞬間、石が成りたい形が分かったというが、その次元よりももっと人間の自我が捨てられた無私の造物じゃないか。

こういった北欧(特に僕はノルウェイに感動した)のデザインという言葉以前のような造物を見た後に、フェーンやアールトを見ると何だか次元が違いすぎる、比べるのもおかしいが。
確かに彼らのデザインも素晴らしいが、前述のものと比べると近代の人間的な傲慢さが重たい。
一見、木を多様しているから近代技術と自然を調和させたデザインなどと言われているけども、僕が見た中ではアールトの夏の家のサウナとゲストハウス(なんと石場建て)、フェーンのヘドマルク博物館の屋根以外、コンクリート構造の化粧としてしか木を使っていない。マイレア邸アールトの自邸然り。その仕上げもかなり加工された木であって、北欧民家に見られる素朴さはなく、モダンでスタイリッシュである意味、日本的な木の使い方なのかなぁという印象を受けた。もちろん、日本にも草庵に見られるような素朴さや、ある種の荒々しさもあるが、同時に洗練されたものも存在し両義的な表現がされていたんじゃないか。
近代化、工業化の最前線にいた偉大な建築家達だから、前述の事は当然のことだとは思うが、いろんな「北欧デザイン」の捉え方があって良いんじゃないか。