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2014/07/23

新たなXXX

ポルトガル、ポルトの海辺近くの道端で佇んでいる老人

都築響一さんが神戸の稲荷市場にあるSalone I'maで「独居老人」にまつわるトークショーをされるというので行ってきた。
都築さんの話は刺激的で非常に面白いが、都築さんと喋っていると気付けば(聞かれてもないのに)僕の話をしてしまっていたりと、単なる聞き上手、引き出し上手を超えた能力を持っているように感じた。都築さんは教条的な事を言ったりはしないが、(それ故に)話の中にいろんな種というか撒き餌のようなものを感じた。そのことに次の日の朝気付き、何で自分のつまらない話よりも都築さんの話をもっと聞かなかったのかと後悔した。

Salone I'ma

「上から目線」というキーワードが都築さんの話でよく出てくる。新国立競技場に関しても建築家が上から目線で議論をしているという話をされていた(都築さんのウェブマガジン、ROADSIDERS' weeklyの2014年07月09日 配信号に新国立競技場の記事が掲載されていて都築さんの意見が伺える)。そういった上から目線の圧力や恫喝に対して、全く別のレイヤーで生まれている面白いモノや人を取材し提供されているという印象を受けた。
トークショーでは、独居老人が「上から目線」の行政の政策や家族などがなくてもストレスなく楽しく生きているという話から始まり都築さんの著書「独居老人」に載っている老人をより細かく活き活きと紹介されていた。老人の自殺で一番多いのは三世帯で暮らしている(一般的には幸せそうな)老人であるということも話されていた。

話の次元は変わるが、トークショーが行われていたSalone I'maも「上から目線」の建築家などに頼らず素晴らしい場所を自分たちの手で作っている。Salone I'maや最近、大阪の中津商店街にある彫刻家のヒロセさんが作られたカフェ、ンケリコとう一般的なDIYを超えた技術をもって独自の空間をつくっている事例を見て、「建築家って必要なのか」ということを最近個人的に考えていたので、都築さんにSalone I'maの外観を見ながらそういう話をしたら、「こういう時代での新しい建築家の在り方があるんじゃないかな。」と言われた。

ンケリコ

建築家やデザイナーはある種のシステムのようなものをつくり秩序をもたせる側面があると思う。上から目線の政策や援助、システムのようなものが逆に個人の行動に制限や圧力、ストレスを与え自殺者を増やしているという事実もあるが、一方で放っておけば皆がクリエイティブに生きられるのであれば始めからシステムなど存在していないのではないか。
個人にストレスを与えず上から目線にならない内発的システム、一見カオスにも見えるような、対象によって動的に変化するシステム ー それがもはやシステムなのかは分からないし、システムとう言葉自体、上から目線なのかもしれない ー のようなものがあれば、独自に面白いことをやっている人にとっても意味があるかもしれない。というようなことを「独居老人」を紹介しつつも上記のような事を言ってくださった都築さんから感じた。

P.S.
この話は東浩紀と茂木健一郎の教育に関する議論と似ているかもしれない。東浩紀は日本の学力の底上げをするためにも教育システムがしっかりしていなければいけないと言い、茂木健一郎はそういった教育システムが能力を平均化させていて面白い人が生まれにくくしていると言う。この一見対立しているようにも思える議論を跳び越えれるシステムのようなものが都築さんが言うところの「新たなXXX」のあり方じゃないか。

2014/07/06

The Boy Who Cried 'Wolf'

Thomas Bewick, 'The Shepherd's Boy and the Wolf' (The Boy Who Cried 'Wolf'), wood-engraved illustration, from 'Fables of Aesop and others', 1818. Printed by E. Walker for Thomas Bewick, Newcastle. National Art Library Pressmark: G.28.Y.1b






何か事態が起こった時に皆で「大丈夫、大丈夫」と言って安心し、警告を促している人達を避難するという(おそらく日本独特の)風潮は何だろうと考えている時に、そう言えばオオカミ少年の教訓は何だったかと疑問に思い、Wikipediaで調べてみた。

自分の記憶では、狼に食べられたのは少年で「嘘をつき続けると、たまに本当のことを言っても信じてもらえなくなり、助けてもらえず死に至る」という教訓だと思ってたが、Wikipediaによるとオリジナルのイソップ寓話で狼に食べられたのは村の羊全て。日本でも何と豊臣秀吉の時代に既にこの話は輸入されていて、オリジナル同様、狼が食べたのは村の羊となっているが、明治7年文部省によって、狼が食べたのは羊ではなく少年というように日本では話が改変されたらしい。文部省にどういう意図があったのかはいろいろ想像できる。
オリジナルの話では、村人が少年の警告を今回も嘘だと決めつけ用心しなかったがために財産である羊を失う、というように教訓を捉えることも容易である ー元々この話が教訓的なものであるかは分からないがー 。
もちろん、村の少年が一人食べられることも村人にとって悲劇であり、大きな損害ではあるが、食べられた対象を羊から嘘をついた少年に変えたことで、責任を少年一人に押し付けるという(企業で不祥事が起きた時によく見る)日本独特の話にすり替わっていやしないか。
どちらにしても、この話で被害を受けているのは少年の話を「大丈夫、大丈夫」と言って用心しなかった村人達である。

日本において(特にネット上で)警告を促している人を「平和ボケ」だのと批判している人達こそ平和ボケしていると思う。何か事態が起こった時に最悪の場合を考慮しておくというのは普通のことで臆病者と避難されるべきことではない。

2014/07/02

Qrion

©SenSe
Qrionという聞いたことがなかったアーティストのSinkという曲をたまたま聞いて良かったから調べてみると、なんとQrionは19歳の日本女子だった。北海道、札幌を中心に活動しているみたいで、札幌のSenSeというレーベルから音源を出している。



しかも、下記のリンクから無料でアルバム三枚の音源を配布している。素晴らし過ぎる。
四つ打ちだけでなく、ラップ、ダブステップ、ブレイクビーツなども横断的にミックスしている。一般的にはエレクトロニカ・アーティストとか言われてしまうのかもしれないが、ジャンル分けに必死なオジさん方を横目に軽々とジャンルの枠を飛び越えている印象を受けた。海外のクラブミュージックを自明のものとしてそのまま受け入れ、輸入業者になってしまった日本の(クラブ系)アーティストとは違った風通しの良さのようなものを感じる。

ジャンル、形式を跳躍する感じや、自分の声ーQrion自身の声かは分からないがーや、様々な楽器を使って横断的に音を作り全身で音楽表現をしている感じは何となくGrimesやNicolas Jaarを思い起こさせる。彼らが20歳そこそこで表舞台に出てきたという事も共通している。三人とも音楽表現としては全然違うが似たものを感じる。



Grimesの影響を受けたアーティストがマリリン・マンソン、マライヤ・キャリー、デビット・リンチ、あとマンガの「AKIRA」などというのも分裂的で面白い。



Nicolas Jaarはサックスなどを含めたバンドセットで出てきたり、民族音楽的要素が入っていたりと多様な表現をしている。最近はDarksideというユニットでも活動している。
「Space Is Only Noise」が出てすぐの2011年にミラノで見たときはバンドセットで聴かせる系の曲が多かったが、2013年にバルセロナのソナーで見た時はBPMを変幻自在に変えながら踊らせるパフォーマンスだった。

何で聞いたのか読んだのか覚えていないが、彼のインタビューの言葉で「テクノは早くなりすぎた。そのせいで音楽から多様な、豊潤な要素が失くなってしまった。」といったような内容の事を喋っていたと思う。
美術、建築、デザインなど音楽以外の分野でも同じような事が言えると思う。
去年ミラノのPalazzo Realeでジャクソン・ポロック展を見た時に同時代に活躍した抽象表現主義の画家の作品も展示されていたが、何か物足りなさを感じた。
自分のリテラシーの無さからくるのだと思うが、率直に言うと、どれも同じに見えた。

Jackson Pollock, Number 27, 1950
© Jackson Pollock by SIAE 2013 © Whitney Museum of American Art


ジャクソン・ポロックに関していうと、(彼の名前のついた展示会だけあって)ドリッピングの作品だけでなく具象画のようなものも展示されており、様々な表現の中に彼の人間的複雑性が見れたような気がして面白かった。あとは日本のカリグラフィに影響を受け、そのまま書道を絵にしたような ー書から漢字の意味を排除すればただの形になるー 作品だったり、ただの反復に感じた。

Willem de Kooning, Landscape, 1949
© Whitney Museum of American Art © The Willem de Kooning Foundation by SIAE 2013




Franz Kline, Mahoning, 1956
© Franz Kline by SIAE 2013 © Photography by Sheldan C. Collins
玄人には分かる違いがあるという人もいるかもしれないが、そもそも情報量が少なく単一化してはいないか。還元的というよりも排除的な表現のように思う。
展示の終わりの方に抽象表現主義の歴史年表が写真付きであったが、その一番初めの写真が長崎に落とされた原爆のキノコ雲の写真で、そこから抽象表現主義の歴史年表が始まっているのが象徴的に思えた。



40年代に抽象絵画がでてきた当時のアメリカでは新しく衝撃的だったのかもしれないが、後はその繰り返しに見える。同じ単調なビートの曲をずっと聞かされているようだ。
音楽のハウスやテクノ・ミュージックなどをミックスする時でも抽象化された単調な電子音だけの曲だとビートとBPM(速さ)さえ合っていれば、それなりに繋がって聴こえるが、そこにある種の不確定要素、声やアナログ楽器、民族音楽的要素が入ってくれば容易にミックスできない。
形式化した単一な絵画や音楽の前で玄人ぶって腕を組んで違いを分かったようにするのも良いかもしれないが、ジャンルの枠を一歩外に出ると尻込みしてしまう。
(僕の知ってる限りの)音楽に関して言えば、10代、20代の若者の方が風通しが良く、ジャンル分けされたヒットチャートなどに惑わされずいろんな音を聴き、横断的な表現をしているように思う。

あと余談だけども、Bloodthirsty butchers, Eastern youth, Cowpersなどの札幌ハードコア・シーンを始め、札幌の音楽シーンが昔から面白いのは何でだろう。しかも皆、西欧かぶれしておらず独自の音をちゃんとミックスしている。それを開拓民的と片付けるのは安易過ぎるかもしれない。
それにしても、昨今の日本ではあらゆる分野で西欧モノを輸入しそのまま受け入れ、ミックス、リミックスもしなくなってしまったように感じる。最近、輸入雑貨屋が多くないか。ブカブカの服をそのまま着せられていやしないか。吉村さん、、、